大阪聖アンデレ教会

だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。」 (マタイによる福音書1章1節~)
大阪聖アンデレ教会 牧師 司祭 ヤコブ義平雅夫

 生まれて初めて自分から「先生」と呼びかけたいと思った人がいます。それはある老牧師で、私が三十近くなってから出会った人でした。(それまで出会った先生が「先生」と呼ぶに相応しいと思わなかったという意味ではありません。それまではただ、そういう呼称として無自覚的に呼んでいただけで、心からそう呼びかけたいと思うような境涯に、それまでの私が至っていなかったというだけのことです)。

  さて、件の先生は決して雄弁ではありませんでした。カリスマ性もありません。組織の重要な役職に就くようなタイプでもありません。どちらかというとちょっと「ドンクサかった」です(先生、ゴメンナサイ!)。でも、ふらりと教会に先生を訪ねると、いつも先生は私の話を何の分析も判断も評価もせず、ただ黙って耳を傾けてくれました。それで私は、その生き方が正しいとか正しくないとかいう前に、人はそのようにしか生きられないときがあるのだという、深い肯定感の中に受けとめられているような気がしました。

「信仰なんてものは成長しないよ。信仰生活が長い分だけ信仰深くなるなんてことはないよ。ぼくなんて、神様を信じたその最初の日がいちばん信仰深かったよ。それからだんだんと信仰がなくなってきたよ。」先生はそう言いました。

イエス・キリストは弟子たちに「あなたがたは先生と呼ばれてはならない」と言われました。キリストの弟子が示せるものがあるとすれば、それは自分の得た知識でも能力でも信仰でもなく、そういうものが欠けている私を神が生かしてくださっているというありようだけだということなのでしょう。逆説的ですが、「信仰がないのに救われて生きている」(マルコ9:24)姿をさらしているのが信仰者の姿なのでしょう。そのことを教えてくれたのが、私にとって先生でした。

あれから年月が過ぎ、思いがけず先生と呼ばれる立場になってしまった私はイエス様の目にどう映っているのでしょうか。せめて、私の欠けや破れをこそ神が用いてくださっている姿をさらけ出せるような、そんな「ドンクサイ老牧師」になれたらと祈るばかりです。