大阪聖アンデレ教会

「子供たちを来させなさい。わたしのところに来るのを妨げてはならない。天の国はこのような者たちのものである。」 (マタイ19:14)
大阪聖アンデレ教会 牧師 司祭 ヤコブ義平雅夫

 先日、ある人を見舞いに行った帰り、妻と西宮市郊外のレストランに入った。窓からは緑の田畑や空き地、少し向こうには遠く三田の町並みが、小雨に濡れて少し霞んで見えていた。見下ろせば住宅用に造成された土地があり、建物の建たないまま雑草だけが寂しそうに濡れていた。

  食事を終えてしばらく窓の外を眺めていると、子どものころ、家の周りにはこういう空き地や田んぼ、木材置き場、土の山などがたくさんあったことが思い出された。今から思えば、あれは工事用の土の保管場所だったのだろうか、近所の原っぱにしっかりと固められた土の山がいくつもあって、友だちみんなと自転車で助走をつけて頂上まで一気に登り、あとは思い切り滑り降りるという、至極単純な遊びを飽きもせず繰り返した日々があった。  

  窓から見える造成地はなだらかな斜面になっていて、斜面の下側からは盛土の反対側が死角になっているように思われた。ところどころに生えているススキがさらにおもしろい死角を作っていて、子どもの背丈ならかくれんぼをしてもうまく隠れられるだろうと思えたし、鬼の側も、足音を偲ばせながら盛り土に沿って回り込めば、相手の背後からうまく近づけるような気がした。朝から小雨が降り続いていたが、幼い日、こんな日もきっと外で遊ぶのは楽しかった。子どもにとっては雨の匂いは新鮮だし、濡れて滑りやすくなった草の感触がおもしろかったり、路面がきれいだったり、ぶらんこの下に水たまりができていたり、それはそれで豊かな時間だった。

  そういえば「コマおに」という遊びがあった。コマを回して手のひらに載せ、コマが回転している間だけ走ることができるという鬼ごっこだった。必死で追いかけて、もう少しで捕まえられるというその直前で自分のコマが止まってしまって相手に逃げられたり、反対に、一刻も早く逃げようと焦れば焦るほどうまく紐が巻けなくて捕まってしまうこともあった。そういう遊びをしていると、転校してきたばかりのクラスメートともすぐに仲良くなった。  

  ぼんやり眺めていた目の前の造成地には、小雨に濡れながら嬉しそうに走り回っているあの頃の自分がいるようだった。手にコマを持っていた。楽しそうだった。ニコニコしていた。  

おさない日は
水が ものを言う日
木が そだてば
そだつひびきが きこゆる日 (八木重吉)  

  あの頃は、水が生きていた。木が言葉を持っていた。誰もいなくなった雨の公園を眺めていると、ぶらんこにはぶらんこの、滑り台には滑り台の、誰にも語らない気持ちがあるように思えた。おさない日は、水や土や、木や雲が言葉を持っていて、黙したままで対話できた気がする。

   「天の国はこのような者たちのものである・・・」  
  天の国とは、いつか召されるであろうどこかの場所のことではなく、自分が子どもになれば、そこにたちまち現れる世界のことなのかもしれない。  

  そんなことを考えていた雨の午後であった。



2017/04